第65楽章からの続きです。
一方、葵西幼稚園は園舎が建つつつじが丘の地名を取り入れ「つつじが丘幼稚園」に名称を変更し、様々な行事は葵西幼稚園の歴史を継続することにしました。
葵西幼稚園時代のことに戻りますが、このようにして、30数年の葵の伝統は新しいステージに立つことになります。ちなみに、三つの幼稚園から二つの幼稚園になった初年度、つまり平成10年度の園児数は、つつじが丘幼稚園は206人、帯広の森幼稚園は169人、合計375人でした。この合計数は、前年度比57人の減だったのです。
これは、平成2年、3年頃の「葵幼稚園の廃園」問題あたりからの混乱が、地域社会の中で法人全体にボディブローとして効き始めていたと考えざるを得ません。しかし、理事会や職員はそのことに気づいていませんでした。
ここで、繰り返しになりますが第二次帯広源照学園のスタートとなった平成4年以降の5年間を振り返りたいと思います。
平成4年4月、源照学園の第3代理事長に山田麟太郎が就任します。5月には事務長を兼務する専務理事に上野敏郎が着任します。
平成5年には、葵、葵南、葵西のそれぞれの幼稚園が定員増の申請が認められ、260人、345人、160人と総定員765人の園児数をめざすことになります。葵西幼稚園は、「赤い汽車バス」を通園バスに導入して経営の意気込みを示しますが学園全体の園児数はあまり芳しくありませんでした。ちなみに、総園児数の推移は平成2年は633人、3年は597人、4年は508人、5年は443人となっています。
平成6年、葵西幼稚園はかつてから工事に入っていた温泉プールがオープンします。葵幼稚園に玉川正雄園長が就任します。
平成7年、葵南幼稚園に石谷弘保園長の後任に田口慶治園長が就任します。
平成8年、葵西幼稚園の定員を160人から200人に増加しますが、病原
性大腸菌O157の食中毒を起こします。
平成9年は、O157の解決に全力をあげることになります。
平成10年は、葵及び葵南幼稚園を統合し新しい「帯広の森幼稚園」を定員220人でスタートさせます。葵西幼稚園は、定員を240人とし「つつじが丘幼稚園」と名称を変更します。
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