第3楽章 ー幼児行政に動きー
昭和39年発行の「帯広市勢要観」によれば、当時帯広にある7つの幼稚園には総勢1,465人の子どもたちが通っていました。前年と比較すると、125人増えています。ここで昭和30年代の幼稚園と園児の数を参考までに紹介します。
昭和30年は、5幼稚園で総園児数は640人です。 31年は、4園で730人(前年比90人増)
32年は、5園で740人(前年比10人増)
33年は、5園で730人と10人減っています。
34年は、6園で974人と何と244人も増えています。
35年は、6園で1,058人(前年比84人増)
36年は、6園で1,139人(81人増) 37年は、6園で1,157人(18人増)
38年は、6園で1,340人(183人増)
そして「葵幼稚舎」が加わる昭和39年は、7園で1,465人(前年比125人増)となっていますが、この数字の中に葵幼稚舎の9人が入っていることになります。 |
※昭和39年1月28日付け十勝毎日新聞掲載の広告です。
この年の4月に「葵幼稚舎」は7番目の幼稚園として開園します。
まだ、帯広幼童教育振興会には入会してません。 |
125人の子どもが前年より多く幼稚園を選んでくれていますが、実績のない葵幼稚舎には当時の関係者が厳しい入園の数と受け止めたかどうかは判断できませんが、翌40年には宗教法人立の帯広源照学園「葵幼稚園」と変更し、3年後の昭和43年には113名の子どもたちが通う幼稚園に成長していくのです。ちなみに、昭和43年の幼稚園は2つ増え8園で、総園児数は1,627人です。
このような動きの中で国も帯広市も行政の進め方が変わっていきます。国は、昭和39年に「学校教育法施行規則等の一部を改正する省令」を公布し、幼稚園における教育日数を220日以上とし、教育課程の基準は「幼稚園教育要領」によることとした年でした。 |
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