第5楽章 ー帯広市議会ではー
国は、昭和38年7月18日〜昭和39年7月18日まで、池田勇人内閣で文部大臣を務めた灘尾弘吉大臣のもとで、中長期の幼児教育計画をつくり、昭和39年を初年度とする「第一次幼稚園教育振興計画」をスタートさせています。国の幼稚園教育に関する予算も、それまでは毎年1億円ずつの増額だったのが、昭和38年比で2億円になっています。
それでは、帯広市の幼稚園はどうでしたでしょうか?昭和39年ごろの帯広市の小学校にはいる前の子どもたちの子育ての環境を見てみましょう。
例えば、昭和39年3月10日の帯広市議会の議事録にその現状を垣間見ることができます。そこには次のようなやり取りが記録されています。 質問者は松井彦松議員です。 |
松井彦松議員の似顔絵 (画・菅野孝雄) |
質問:「保育所の希望者は2倍といっております。これはまだまだ入りた
い人がいると言うことです。入れないから2倍だと私は思いす。 国は本年、特に厚生事業に力を入れ、厚生省もまた保育所ある
いは乳児院、その他の施設に相当の予算をもっております。
帯広といたしましても毎年1つぐらいずつ保育所あるいは幼稚園
といいますか、乳児院といいますか、せめて保育所だけでも1つ
ずつ作っていくというところの構想を持って欲しい。市長はどう
いうお考えを持っているのか。」
こう松井議員は、当時の吉村博帯広市長に迫るのです。正に、小学校入学前の子どもたちの子育て環境の整備は帯広市にとって差し迫った課題だったのです。昭和39年3月議会で松井彦松議員は、より緊急性のある問題として未就学児童の保育・教育環境の改善を熱く議会で訴えたのでした。 |
|