昭和60年の十勝毎日新聞は、次のような見出しで当時の幼稚園事情を報道しています。
〇01月30日 心は早くも入学式 (栄)保育園児が栄小訪問 〇02月22日 市内幼稚園「冬の時代」 幼児減少で定員割れ続く 大空地区が深刻 〇03月16日 元気いっぱい卒園式 帯広幼稚園121人巣立つ 〇09月26日 管内17園で公開保育 道私立幼稚園大会開幕 〇11月17日 定員確保に躍起 市内幼稚園今年も“広き門” 特色づくりで勝負 12月2日から願書受け付け
PR合戦も盛ん 〇11月24日 劇や遊戯で熱演 帯広幼稚園 音楽リズム発表会 〇11月27日 幼児にもニューメディア教育 分科会で意見交換 道私立幼稚園教育研大会
このように、通常保育の状況はいつもの通りですが、翌年度につながる園児募集は厳しいものでした。特に、2月22日の見出しにある「大空地区」とは、葵
南幼稚園のことをいいます。この幼稚園は、帯広市が昭和42年から計画戸数
2,700戸、計画人口1万人を目指して造成した大空団地に、昭和44年に開園された幼稚園です。開設初年度は35人の園児数でしたが、10年後の昭和54年は287人、ピークは58年の300人です。そして、昭和60年は261
人まで減少することになるのでした。
大空団地で唯一の幼稚園が、当時の源照学園(今の葵学園)が運営する葵南幼稚園です。入園受付は実ににぎやかであることは容易に想定できる話です。しかし、昭和60年2月22日に新聞のコメントは「例年だと、今頃の時期は150人ぐらいは集まるのですが、こんなに少ないのは初めてです」との紹介です。
別の記事は、市内15園中定員を満たしたのは3園だと報じています。この厳し入園受付状況は、背に腹は代えられないとしてPR合戦を生み出します。この変化を捉えて帯広幼稚園協会の会長は「個人プレーはしないように」と警鐘を鳴らします。正に、幼稚園の戦国時代到来とも言える状況が、帯広の幼児教育界に起きたのです。
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